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死に様データベース
《病死》 《1441年》 《5月》 《27日》 《享年79歳》


正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれもに先立ち、若いうちに喪っている。

応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。


室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。

永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。


永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。

気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)


翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。


事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。

ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。


また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
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《病死》 《1368年》 《9月》 《29日》 《享年不明》


鎌倉公方家の上﨟女房。
初代鎌倉公方足利基氏の「保母」。
その嫡男金王丸(のちの足利氏満)の介添え役。
清江」が道号、「如寛」が法諱で、
女房名は、はじめ「御方御局」、次いで「上﨟御局」、
金王丸の介添え役となって「御介錯」と呼ばれた。


清江如寛の出自は明らかでないが、
上﨟女房であることからすると、
ある程度身分の高い家の出身だったと考えられる。
あるいは、足利一門の出だったろうか。

如寛は、京都生まれの足利基氏に母親代わりとなって仕え、
基氏が9歳で鎌倉に下るのに従ったと考えられる。


基氏の実母は赤橋登子であり、
足利尊氏の正室、その嫡男義詮の実母として、
貞治4年(1365)に没するまで京都で暮らしていた。
如寛の周辺を見ていると、
鎌倉不在の基氏の実母に擬されて、
公方御所のひとつである西御門御所の別殿に住まい、
丁重に遇されていたようにも思われる。


ただ、実子にも等しい基氏は、
貞治6年(1367)4月26日、
28歳で先立ってしまった。
如寛が悲しみに暮れたことは想像に難くない。


それから1年半をまたない応安元年(1368)9月29日、
如寛も逝去した。
50歳前後と推測される。
10月5日、基氏の菩提寺である鎌倉瑞泉寺で荼毘にふされ、
基氏以下の信頼の厚かった義堂周信が、仏事を主導した。
そして、如寛の遺言により、
住まいであった西御門御所の別殿を寺院にして、「保寿院」と名付けられた。
四十九日の法要も、この保寿院でされたという。


かくして、
保寿院は鎌倉公方家にとって重要な寺院となった。
12月には、金王丸とその母清渓尼の命により、
義堂周信が保寿院主となっている。

約半世紀後、
金王丸の腹心のが、金王丸のに当院の前で謀叛の兵を挙げるのは、
また別の話。


〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』(有隣堂、1980年)
《病死》 《1447年》 《7月》 《12日》 《享年15歳》


権中納言広橋兼郷の三男。

祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。


「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。

中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。


文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。

6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。

同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。


4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。

 わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな

阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。

これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
 過分のほどはなかなか申し上げようもない。
 とくに御製をいただいたことは、格別である。
 阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。


もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
《誅殺》 《1381年》 《10月》 《27日》 《享年不明》


鴨社の前社務。
記録には「祐-(『後愚昧記』)と記されているのみで、
いまその名は詳らかにしえない。
なお、「祐」は社務家の通字であり、みな「祐○」と名乗っている。


永徳元年(1381)10月27日夜、
この男は実相院の坊官祐栄の家へ忍び入り、
鞍を盗み出そうとした。
うまく盗みおおせたのか、あるいはしくじって感づかれたのか、
逃亡しようとしたところ、
京都四辻今出川あたりで見つかって囲まれ、討ち取られた。

窃盗の常習犯であったというが、余罪は明らかでない。


〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
《事故死》 《1405年》 《5月》 《某日》 《享年不明》


室町時代の大名大内盛見の嫡男。
父盛見は、
大内氏が世襲した周防・長門守護に加えて、
筑前・豊前守護にも任じられて、室町幕府の九州支配を担い、
中国地方と九州北部に大きな勢力を築いた。


応永12年(1405)5月、
大内氏の本拠周防山口(現・山口市)は、長雨に見舞われたらしい。
某日、
山口盆地の中央を流れる椹野川が、仁保川などと合流する鰐石付近で決壊。
濁流は、山口盆地の田畠や人家を押し流し、
多くの人々を飲み込んだだろう。
大内氏当主盛見の嫡男豊久丸も、
その濁流に飲まれ、命を落とした。

父盛見はこのとき29歳だったというから、
豊久丸は、長じても10歳前後だったろう。

豊久丸の遺骸は、
10㎞ほど下流の小郡下郷で発見されたとされる。
同地の妙湛寺(現・同市)には豊久丸の墓と伝わる墓石があり、
現在でも豊久丸の供養が行われている。
山口新聞 2020年6月22日


ところが、
この豊久丸の水死については、不思議な伝承も伝わっている。

かつて、大内氏の先代当主義弘が、幕府に叛乱を起こして滅亡したあと、
その弟たちの間で壮絶な家督争いが起こり、
それを制して実力で大内家を継承したのが、盛見だった。
自分の死後、再び一族で同じような争いが起こることを危ぶんだ盛見は、
兄義弘の子持世・持盛兄弟を、あらかじめ後継ぎに定め、
自ら息子の豊久丸を水害に乗じて葬り去ることで、
将来への禍根を断った、というのだ。

少々できすぎた話であり、信じるに足るほどのものではないが、
盛見の憂いが事実だとすれば、
盛見の没後、
持世・持盛兄弟の間で熾烈な家督争いが勃発しており、
盛見の不安は的中した、ということになる。



〔参考文献〕
藤井崇「盛見期の分国支配」(『室町期大名権力論』同成社、2013年)
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