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死に様データベース
《病死》 《1324年》 《3月》 《12日》 《享年55歳》


憙子内親王
父は亀山天皇、母は典侍法性寺雅子。
後宇多天皇は異母兄にあたる。
御所の場所より、「土御門女院」「河鰭宮」などとも呼ばれた。

永仁元年(1293)12月10日、内親王宣下を受け、
同4年(1296)8月11日、准三宮となった。
同日、女院号の宣下も受け、昭慶門院と称した。
このとき、27歳。

父亀山法皇の御幸にたびたび同行しており、
親子の仲が良好であったことをうかがわせる。
父から多くの荘園も譲られている。

嘉元4年(1306)9月15日、父の一周忌に際して落飾し、法名を清浄源とした。

延慶3年(1310)ごろか、
甥である尊治親王(のちの後醍醐天皇)に皇子世良親王が生まれると、
昭慶門院の養育するところとなった。
王家において昭慶門院が重んじられる立場にいたことを示そうか。


正中元年(1324)になってからか、昭慶門院は腫物に悩まされ、
3月に至って、容態が悪化した。
昭慶門院の気がかりだったのは、愛しい養君世良親王の元服だった。
「余執(死後にもなお残る執着)」(『花園院宸記』)だったという。
どうにか存命中にということになり、
3月12日、世良親王の元服式が執り行われた。
午の刻(正午ごろ)、元服式が終了すると、
申の刻(夕方4時ごろ)、昭慶門院は崩じたという。
享年55。
まさに、昭慶門院は大甥の成長に生死をわけるほど執心していたのであった。

昭慶門院が有していた荘園郡は、世良親王が相続したが、
その世良も、6年後の元徳2年(1330)に早世してしまった。



〔参考〕
『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)
東京大学史料編纂所データベース
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《自害》 《1408年》 《5月》 《25日》 《享年不明》


慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。

*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****


曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。


類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
 女子供は、自律できずに流されやすい。
 安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。

慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。


あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。

慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。

山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。

これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。


火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。


慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。


応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。

 冷熱は生道人の知るところに非ず。

そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。


慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。



〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
《病死》 《1329年》 《9月》 《24日》 《享年不明》


北条実時(金沢家2代)の側妻、金沢北条家の女房。
出自は未詳。

将軍宗尊親王の女房で、同じく実時の側妻のひとりであった帥局の養女となったとされる。
谷殿(やつどの)」の呼称は、居所にちなんだものとおぼしく、
建治2年(1276)の夫実時の没に際して、出家して法名永忍を号したか。

その後、鎌倉極楽寺の近くに庵室を構えたようだが、
徳治元年(1306)ごろ、
極楽寺の火災により延焼する不遇に見舞われている。


永忍に子はなかったようで、
慈眼房なる僧侶を養子にしたが、正和4年(1315)ごろに先立たれ、
のち、実時の孫金沢貞顕を養子とした。
下総国下河辺荘の河妻・前林両郷(現・茨城県五霞町・古河市)や、
信濃国太田荘の石村・大倉両郷(現・長野市)を領し、これらを貞顕に譲った。


元徳元年(1329)9月24日、病没。
実時との関係からすれば、若くても70歳前後だったと思われる。
4年後の貞顕やその他北条一門の運命など、知らずによかったというべきか。

養子の貞顕は富士大宮司に諮問して、120日の間、養母の喪に服した。
貞顕がそのことを、六波羅探題南方だった息子の貞将かに伝えた書状(「金沢文庫文書」)には、
正中の変にもかかわった土岐頼員の誅殺事件についても触れられており、
当時の不穏な世相をうかがわせる。

翌月から翌年にかけて、
貞顕はたびたび永忍の菩提を弔う法要を行っている。
称名寺所蔵(神奈川県立金沢文庫保管)の「称名寺絵図」によれば、
谷殿の墓は、金沢北条氏の菩提寺だった同寺境内北東の実時の墓に並んで建てられている。



〔参考〕
永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)
同「[史料紹介]称名寺所蔵『聖天 五』紙背文書について」(『東京大学史料編纂所研究紀要』24、2014年)
『特別展 よみがえる中世のアーカイブズ―いまふたたび出会う古文書たち―』(神奈川県立金沢文庫、2021年)
《病死》 《1424年》 《8月》 《28日》 《享年不明》


内裏女房。
藤原氏の一流高倉家の出身かとも推測されているが、出自は未詳。


当初は、伏見宮栄仁親王に仕えてその寵愛を得たらしいが、
のち、内裏に出仕して後小松・称光両天皇に掌侍(内侍司の三等官)として仕え、
たびたび参内する北山殿足利義満にも愛された。
栄仁の子貞成親王には、「吾が継母」のひとりとされている(『看聞日記』)

応永初年ごろには、勾当内侍(掌侍の第一﨟)になっていたとされ、
応永22年(1415)に正五位下、その翌々年には従四位下に昇っている(「叙位除目女叙位文書」、『兼宣公記』ほか)
能子」の名は、これらの叙位にあたって付けられたものだろう。
「能」は父の名の一字であろうか。


能子はその立場上、諸方の事情に通じることから、
伏見宮家と内裏・仙洞・室町殿との橋渡しをつとめた。
郊外に逼塞する伏見宮家にとって、その間の調整にあたった能子の功績は大きい。


応永25年(1418)7月、伏見宮家を巻き込んで起こった内裏女房新内侍の密通疑惑事件は、
その局親(女房の擬制的な親)である能子の身にも及んだ。
称光天皇の怒りを受けた能子は、勾当内侍を更迭されそうになったが、
室町殿足利義持のとりなしでどうにか収まった。
事件の背景には、
皇統をめぐる後光厳流(後小松・称光)から崇光流(伏見宮家)への敵愾心があったとされる。


応永27年(1420)3月上旬、能子は体調を崩した。
はやり病であったらしい。
能子は勾当内侍の座などを、仙洞女房の姪右衛門督局に譲ることを望み、
後小松上皇と室町殿義持より安堵を得た。
3月16日、病身の能子は典侍(内侍司の二等官)に叙され、即日これを辞して落髪した。

また、能子は伏見宮家から、一期分(一代限り)として播磨国比地御祈保(現・兵庫県宍粟市)を与えられていたが、
それを弟の円光院尭範に譲与することを、本所の貞成親王に願い出た。
貞成は、面識のない尭範に所領がわたることに難色を示したが、
翌4月、能子のこれまでの奉公に報いて、尭範一期に限ってこれを許した。
ただ、このころ能子の病気は本復している。

その後、能子は宮仕えに復さず、旧里への籠居を続けた。


能子の不遇は続く。
応永29年(1422)6月、姪の右衛門督局が、ライバルの仙洞女房別当局(東坊城茂子)に勾当内侍の座を逐われた。
自身の籠居と姪の落魄を、貞成親王は「老後の恥辱もっともふびん」と憂い、

 故北山殿(足利義満)の御時、寵愛を蒙り栄幸にあう。
 暫時思い出づるに夢のごとし。天上五衰なげかるるものか。(『看聞日記』)

と述懐を続けている。


応永31年(1424)6月ごろ、能子は再び病を得て、8月、容態を悪化させた。
8月8日、伏見宮家の女房東御方が見舞いに訪れると、「存命不定」の状態だったという。
18日には同じく宮家女房の廊御方が見舞い、「言語分明に昔物語に及」んだが、
食欲はないようで、何もものを口にしなかった(『看聞日記』)

28日、他界。
貞成より年長とすれば、60歳前後だったろうか。
姪右衛門督局への相続は後小松上皇に改めて認められたが、
勅勘は解けぬまま、不遇のうちの死去であった。
貞成が、天人五衰(天人の死に臨んで現れるという五つの兆し)になぞらえたのも、
往時の栄華からの凋落ぶりを思えば、無理なかろうか。
ただし、
その「栄幸」は男性権力者の「寵愛」に依り、
その零落は、天人のごとき麗しさの“衰え”に例えられた。


おばと同じく籠居していた右衛門督局は、ほどなく仙洞への帰参を許された。
所領を譲り受けた弟の尭範は、翌32年(1425)10月、姉を追うように病没した。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』(宮内庁書陵部、2002年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』(宮内庁書陵部、2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』(宮内庁書陵部、2006年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
村井章介「『看聞日記』人名考証三題」(『日本歴史』882、2021年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1227年》 《11月》 《4日》 《享年不明》


北条時政の娘、政子・義時の姉妹。

源頼朝の異母弟阿野全成の妻となり、頼朝・政子とは兄弟姉妹どうしで夫婦だった。
建久3年(1192)8月、
阿波局は生まれたばかりの甥千幡(のちの源実朝)の乳母に選ばれ、
将軍御所に伺候した。


建仁3年(1203)5月、
夫の全成は、甥の2代将軍源頼家に謀反の罪を着せられ、流罪のうえ殺害される。
このとき頼家は、その妻阿波局も尋問しようとしたが、
政子が、
「このようなことを女性に関知させるべきでない」(『吾妻鏡』)
と庇ったため、御所への奉公を続けた。

それ以前の正治元年(1199)冬に、阿波局は、
御家人結城朝光へ梶原景時の讒言を忠告して、景時失脚のきっかけをつくり、
建仁3年(1203)9月には、
新将軍実朝の近くに、父時政の後妻牧の方がいるのは不穏当だ、と姉政子に進言し、
実朝を政子邸へ引き取らせている。
将軍家の乳母として、また政子の姉妹として、
彼女が幕政に少なからず影響力をもっていたことがうかがえよう。


建保7年(1219)正月、実朝は、甥の公暁に殺害され、
翌月、阿波局の息子阿野時元は将軍の座を狙って挙兵し、
叔父の執権北条義時に討たれた。
乳母子と実子をほぼ同時に喪った阿波局は、
その後も御所へ仕えたとおぼしい。


安貞元年(1227)11月4日、卒。
60歳前後だったろうか。
執権北条泰時は、重臣尾藤景綱の家に移り、
叔母のため30日間喪に服した。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
田端泰子『乳母の力 歴史を支えた女たち』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2005年)
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