忍者ブログ
死に様データベース
《病死》 《1257年》 《7月》 《5日》 《享年87歳》


源在子
承安元年(1171)生まれ。
法勝寺執行能円と刑部卿局藤原範子(範兼の娘)の娘で、
父母が離別したため、母が再婚した継父源通親の養女となった。


後鳥羽天皇の後宮に入り、
建久6年(1195)12月、為仁親王を産んだ。
為仁の即位(土御門天皇)と後鳥羽院政開始後の正治元年(1199)12月、
天皇の生母として准三后となり、
さらに建仁2年(1202)正月、
女院号を受けて承明門院と称した。
在子30余歳のころ。

しかし、次の皇位継承者には、土御門天皇の異母弟守成親王が立てられ、
土御門の子孫は、後鳥羽によって皇位継承から排除されることとなった。
これには、在子が養父通親より「あいし参らせける」ために、後鳥羽に遠ざけられ、
替わって守成の母藤原重子(修明門院)がその寵を集めた、
という裏事情があったという話もあるが(『愚管抄』巻6)
男性の変節を女性の落ち度に負わせ、
なおかつそれをゴシップとして消費する偏見的な見方である。


承元4年(1210)11月、
後鳥羽によって土御門が譲位させられ、守成(順徳天皇)が即位した。
「源博陸」(源家の関白の意)とまで呼ばれた権力者の源通親は、すでに世になく、
養祖父の後ろ盾を欠く土御門は、傍系に甘んじたのである。
翌年の建暦元年(1211)12月、在子は出家して真如妙と号した。
その間、在子はたびたび病に罹って、
息子土御門上皇の見舞いを受けている。
在子40歳のころ。


ところが、承久3年(1221)、
後鳥羽上皇が承久の乱を起こすに及んで、在子の周囲は一変する。
鎌倉幕府によって、後鳥羽は隠岐へ、土御門は土佐(のち阿波へ移送)、順徳は佐渡に流され、
在子は夫と息子と生き別れとなった。
在子51歳。
自身に累が及ぶことはなかったが、
翌貞応元年(1222)7月には、放火によって土御門万里小路御所が焼亡するなど、
在子が不安のうちに身を置いたことは間違いない。

10年後の寛喜3年(1231)10月、再開を果たせぬままに土御門に先立たれ、
阿波より遺骨を迎えて、山城金ヶ原(現京都府長岡京市)に法華堂を建てて安置した。

在子はまた、
覚子内親王や仁助法親王、邦仁王ら土御門の遺児たちを引き取り、養育した。
いずれも養父通親の孫通子が産んだ皇子女たちである。
いっぽう、忠成王ら順徳上皇の皇子女は、順徳の母修明門院重子が養育、後見していた。
仁治3年(1242)正月、
四条天皇の崩御によって、承久の乱後に鎌倉幕府が擁立した後高倉皇統が断絶すると、
在子の擁する土御門皇子か、重子の擁する順徳皇子か、
どちらの皇統が皇位を継ぐかが争点となった。
京都政界を牛耳る九条道家と西園寺公経に推された順徳皇子忠成王が、有力とみられたが、
幕府の強い意向により、土御門皇子の邦仁王に決定し、
仁治3年(1242)正月、邦仁は在子のもとで元服して、3月に即位した(後嵯峨天皇)
同年5月には、西園寺姞子が在子の猶子となって入内している。
息子土御門の退位以来続いた在子の斜陽と不安の日々は、
30余年を経てようやく晴れたといえようか。
後嵯峨の行幸や諸臣の拝礼を受けるなど、70歳を超えた在子は天皇の祖母として公家社会で厚く遇された。


正嘉元年(1257)春ごろ、在子は体調を崩した。
夏に至っても快復せず、6月15日に後嵯峨の見舞いを受けた。
しかし、
7月5日未の刻(午後2時ごろ)、他界。
日来の不調により、本人も周囲も“その時”を待っていたが、
なかなか来ないまま、ついにこの日まで及んだという(『経俊卿記』)
享年87。
翌6日、洛西広隆寺で荼毘に付され、息子土御門が眠る金ヶ原に葬られて、
孫の円満院仁助法親王が仏事を行った。
上皇・天皇の直系尊属で、これほどの長命は前例が少ないとか。
承保元年(1074)に87歳で薨じた後一条・後朱雀両天皇の母上東門院(藤原彰子)や、
嘉保元年(1094)に82歳で薨じた後三条天皇の母陽明門院(禎子内親王)の例が勘案され、
後者の例に依り、後嵯峨は15日間の喪に服した。

その後も在子は、
辛苦の末に後嵯峨皇統を実現させた尊属として王家に称えられたが(「亀山天皇逆修願文」等)
後嵯峨のふるまいによって、その次代から熾烈な皇統の争いが再発するのは、
在子の没後まもなくのこと。



〔参考〕
『図書寮叢刊 経俊卿記』(宮内庁書陵部、1970年)
美川圭『院政 もうひとつの天皇制 増補版』(中公新書、2021年)
曽我部愛『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年)
野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史 3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022年)
東京大学史料編纂所データベース
PR
《誅殺》 《1454年》 《12月》 《27日》 《享年不明》


山内上杉家の重臣長尾実景の
武蔵国人安保憲祐の
名は伝わらない。


関東管領山内上杉家の重臣、長尾実景のとして生まれ、
北武蔵の有力国人安保宗繁の嫡男憲祐のとなった。

舅の宗繁と夫の憲祐は、
永享の乱や結城合戦で上杉方として立ち回り、
嘉吉元年(1441)の上杉方による佐竹討伐でも、
病身の宗繁に代わって憲祐が常陸へ出陣した。
「憲祐」の名も、山内上杉憲実から一字を与えられたものとすれば、
上杉氏と安保氏の蜜月は相当なものであったと思われる。
重臣長尾家のが輿入れしたのも、その表れだろう。


しかし、そうした関係の深さが安保氏の運命を左右した。
足利万寿王丸(成氏)によって鎌倉公方が復興され、上杉氏との対立が再燃すると、
夫憲祐も再び戦乱にまきこまれ、
享徳2年(1453)8月24日、
上野某所での敗退を受けて、自害してしまった。
夫を喪ったは、婚家を離れて実家の長尾家に戻ったようである。


とはいえ、
上杉家の重臣長尾家が、この抗争と無縁でいられるはずもない。
とくに父実景は、前任の長尾景仲に替わって山内上杉家の家宰となり、
重臣の筆頭として、年若い山内上杉憲忠を支える立場にあった。

享徳3年(1454)12月27日、
鎌倉公方足利成氏は、関東管領山内上杉憲忠を御所へ召し出して、殺害した。
主君憲忠に随行していたのだろう、家宰長尾実景とその嫡男景住も、同じく御所内で殺された。
さらに成氏方の一手は、山内上杉氏の本邸鎌倉山内も急襲した。
この争乱のさなかに、実景のも命を落としたという。
父実景が42歳だったというから、
娘は長じても20歳前後だったろうか。
巻き添えの死か、あるいは命を狙われてのものか、定かでない。

東国武士の家で、
夫の死後に、妻が婚家を離れて実家に身を寄せていたことを示す、希少な例でもある。


ただし、
このことを記す「長林寺本長尾系図」の記述には、曖昧な点もあり、
なお検討を要するか。



〔参考〕
黒田基樹編『シリーズ・中世関東武士の研究 1 長尾景春』(戎光祥出版、2010年)
史料纂集 古文書編 安保文書』(八木書店、2022年)
《自害》 《1447年》 《某月》 《某日》 《享年15歳》


二階堂治部大輔の娘、二階堂為氏の妻。
同時代史料で存在を確かめられる人物でないが、
陸奥南部の領主須賀川二階堂氏の興亡を描いた軍記物『藤葉栄衰記』などから、
その三千代姫をめぐる物語を見てみたい。


藤原姓二階堂氏の一族で、陸奥国岩瀬郡(現・福島県中通り中南部)を所領とする一流は、
当主が鎌倉で鎌倉公方に仕えつつ、
一族が須賀川(現・同須賀川市)に入って岩瀬郡を治めていた。


この岩瀬二階堂氏は、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に与し、一時没落の憂き目を見たが、
嘉吉3年(1443)、二階堂為氏がわずか12歳で当主となり、
家の存亡はその幼い双肩にかけられた。
ところが、
須賀川に入っていた一族の治部大輔は、本家の為氏を軽んじて専横を重ね、
鎌倉への年貢運上も怠ったうえ、新たな課役を勝手にかけるなど、
領民からの搾取も行ったという。
為氏は、叔父の民部大輔を須賀川に派遣し、治部大輔を詰問させたが、
民部大輔はかえって丸め込まれ、治部大輔に饗応を受ける始末だった。
そればかりか、
治部大輔の妹で「容色世にすぐれ、嬋媚類いなかりける」といわれた千歳御前を妻に迎え、
すっかり本来の責務を忘れるありさまだった。

治部大輔の驕慢さはとどまることを知らず、
ついに、為氏みずから須賀川に下り、治部大輔を譴責することとした。
文安元年(1444)3月、為氏は一族・宿老以下400余騎を引き連れて鎌倉を発ち、
岩瀬に着いて、須賀川に討ち入ろうとしたが、
治部大輔も防備を固めていたために攻めあぐね、
南東方の和田城に留まらざるを得なかった。
治部大輔も、いまさら降伏したとて命はないものとわかっており、
必死の抵抗をしたのである。


治部大輔には、12歳になる愛娘がいた。
これまた「楊貴妃・西施も粧を恥じん容顔美麗にして、世に並びなし」といわれ、
また書や歌にも通じ、孝心も愛敬も廉直さも備えた娘だったという。
『藤葉栄衰記』にその名は示されていないが、
所伝によれば三千代姫といったという。
二階堂家のゆくすえを危ぶんだ宿老たちは、
この三千代姫を為氏の正妻とし、
為氏と治部大輔を聟・舅の間柄とすることで、
争いを収めようと画策した。
岩瀬郡の周辺には侵食を狙う勢力もあり、
いつまでも内輪もめを続けているわけにはいかなかったのである。

為氏も治部大輔もこの提案を受け入れ、3年の後、ようやく為氏と三千代姫の婚儀がなった。
『藤葉栄衰記』は、祝言に臨んだ三千代姫の姿を、
  帳の隙よりこの御前の御容を密かに見たてまつるに、
  漢の李夫人を写せし画も、是を画かば、ついに筆の及ばざることを怪しみ、
  一度笑める眸には、金谷千樹の華、薫りを恥じて四方の嵐に誘われ、
  風に見たる容貌は、銀漢万里の月も、粧いを妬みて五更の霧に沈むべし
     (読み下し、一部修正)
と、『太平記』「北野通夜物語事」の楊貴妃をたたえることばそのままに、褒めそやしている。
為氏も三千代姫にすっかり心を許し、ふたりは睦まじく暮らしたという。
文安4年(1447)頃のこと。為氏は16歳、三千代姫は15歳であった。


ところが、
治部大輔は岩瀬郡を為氏に明け渡して隠居するという約束を反故にし、
須賀川城に居座って為氏を軽んじ続けた。
為氏は三千代姫を慮って、強硬策をとらなかったが、
為氏の宿老たちは、国を傾けた楊貴妃や西施の例をあげ、
三千代姫を須賀川に送り返して、治部大輔を追討すべきだと主張した。
彼らの必死の諫言に、為氏もついに了承し、
三千代姫を離縁して、宗像越中らの使者を添えて須賀川へ送り出した。

その動きを察知していた治部大輔も黙ってはいない。
道中の岩間あたりに兵を潜ませて、一行を襲わせた。
伏兵は、使者の倭文半内・宍草与市郎らを討ち取り、護衛の兵たちを逃げ散らせた。
だが、にわかの落雷に遭って、三千代姫を確保せずに須賀川に逃げ帰ってしまった。
三千代姫の乗った輿は、
須賀川城手前の栗谷沢(「暮谷沢」)のあたりに打ち捨てられた。


三千代姫は、須賀川へ向かうことも和田へ戻ることもせず、
ここで自らの死を覚悟したという。
お付きの女房たちを呼び寄せ、
「この唐鏡は母へ、金泥観音経と阿弥陀経は父治部大輔へ、
 藤原定家筆の古今和歌集と伊勢物語は、おばの千歳御前へ」
とそれぞれ形見を託し、
手箱や小袖なども女房たちに分け与えた。
また、譜代の岩桐藤内左衛門に懐中の守刀の粟田口吉光を与え、
自分の命日に拈香を捧げてくれるよう頼んだ。
女房や乳母たちは涙にむせび、三千代姫に殉じようとしたが、
「独り来たり独り帰る道なれば、伴うことなし。死して益なきことなり。
 汝らおのおの命を全うして、須賀川へ行きて形見の物を捧げて、
 かくのごとき有り様をも申し、
 念仏の一返も回向して、後世を弔わんこと第一の忠孝なるべし。」
三千代姫にとどめられた。
まもなく、輿のうちより「南無」と唱える声がかすかに聞こえたかと思うと、
三千代姫は脇差しを自らの体に突き立てて自害した。
輿のうちには、

 思ひきや問はば岩間の涙橋ながさで暇くれやさわとは
 (「人問はば岩間の下の涙橋流さでいとま暮谷沢とは」とも)
 限りある心の月の雲晴れて光とともにいる西のそら

という辞世の二首が記されてあったという。

三千代姫の死を見届けた乳母は、
三千代姫が自刃に用いた脇差しを口に含んで自害を図ったが、果たせず、
肩に突き立て直して絶命した。
それを見た岩桐藤内左衛門は、
「女儀なれども自害の様こそ清けれ。
 我男と生まれ、いかでか女の心に劣るべし。
 たといこのたび命生きて、須賀川の御城に立て籠もり、
 為氏公の御勢に向かい、比類なき働きを仕りたりとも、
 我何の面目あって、人に面を見することを得ん。
 人たとい言わずとも、我独り心に愧じず。
 また心も発さぬ出家入道も見苦しかるべし。
 今は浮世に思い置くことなし。」
と思い直し、声高に念仏を十遍唱えて、腹を十文字に搔き破り、
さらに喉を搔き切って、座ったまま絶命した。

取り残された女房たちは、泣く泣く形見の物を抱えて須賀川に行き、
三千代姫と乳母と藤内左衛門の自害のさまを報告した。
このことは和田城にも伝わり、為氏はひどく消沈したという。
為氏と治部大輔の抗争が本格化するのは、まもなくのことであった。


冒頭でも述べたとおり、
いずれも同時代史料から確認できる話ではなく、
為氏や三千代姫の存在すら定かでない。
これらを伝える『藤葉栄衰記』は、二階堂家旧臣のうちの所伝をもとに、
近世初期までに成立した作品とされる。
三千代姫や千歳御前の容貌をことさら取り上げる語り口。
夫為氏に離縁され、父治部大輔にも厄介者扱いをされ、挙げ句に雑兵に置き捨てられて、
よすがを失い、死を選ぶほかなかった三千代姫の絶望。
「男に生まれて女に劣ってなるものか」という岩桐藤内左衛門の観念や虚栄。
いずれも中世末期から近世初期のジェンダー観をたしかに映している。

須賀川市栗谷沢には、三千代姫を弔う三千代姫堂が建っている。




〔参考〕
『続群書類従 第22輯上』(続群書類従完成会、1943年)
『須賀川市史 中世―二階堂領時代―』(福島県須賀川市教育委員会、1973年)
垣内和孝「須賀川二階堂氏の成立」(『室町期南奥の政治秩序と抗争』岩田書院、2006年、初出2005年)
《病死》 《1504年》 《正月》 《14日》 《享年70歳》


内裏(後花園・後土御門天皇)の女房。勾当内侍、民部卿典侍。
藤原南家の高倉家の出身。高倉範綱の娘で、四辻季春の養女となった。

春子は文亀3年(1503)末ごろより病に臥し、
翌4年(1504)正月8日夜、内裏を退去した。
このころ、内裏女房のうちで体をこわす者が多く、
新大納言典侍(勧修寺藤子)も、正月5日夜に内裏を退去、
伊予局(半井就子)、大納言典侍(広橋守子)も病により役目を負えなくなっていた。
流行病があったのだろうか。
正月12日、新大納言典侍は無事回復して内裏に復帰したが、
14日戌の刻(夜8時頃)、春子は帰らぬ人となった。
70歳。


永享7年(1435)生まれの春子は、10歳を過ぎた頃には宮仕えを始め、
文正元年(1466)4月、勾当内侍として従五位上に叙された。
文亀元年(1501)2月に、勾当内侍を辞して典侍に昇っている。
50年以上にわたる宮仕えは、応仁・文明の乱などにより、
およそ安泰とはいえないものだっただろう。
それでも高齢まで、しかも他界の直前までつとめあげたことは、好運だったといえようか。


なお、実家の高倉家は、春子の兄弟範音の代でひとたび断絶したが、
春子の義兄弟四辻季経の息子範久が相続することで、一応の再興を見た。



〔参考〕
『大日本古記録 二水記 1』(岩波書店、1989年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
《病死》 《1400年》 《正月》 《6日》 《享年不明》


鶴岡八幡宮別当弘賢の力者竹鶴の妻。名は伝わらない。
力者とは、輿舁きや馬の口取りなど力仕事に携わった従者のこと。


応永7年(1400)正月6日、死去した。
特段、その様相について記されていないことからすると、病死であったか。
中世では、死穢を免れるため、瀕死の者は寺社や居宅の敷地から外へ出されることが多いが、
なにか理由があったのか、あるいは急死であったのか、
竹鶴の妻は鶴岡八幡宮の境内で死去したようである。

このことは、鶴岡八幡宮の運営を担う供僧の間でも議論を呼んだようで、
正月23日、外方供僧たちは、
修正会の料米が支給されていないことや、導師をつとめた僧侶への加増分がないことと併せて、
この竹鶴の妻の死去について話し合い、
執行(別当のもとで鶴岡の運営を取り仕切る進止供僧)へ伝達している。
おそらくは、別当側の対応の不備を責めたのではなかろうか。


死んだ人、死んだ状況よりも、死んだ場所が重視される、中世の庶民の死。


〔参考〕
「鶴岡事書日記」 『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市、1981年)
1  2  3  4  5  6  7  8  9 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]