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死に様データベース
《病死》 《1425年》 《2月》 《16日》 《享年22歳》


後小松天皇の第2皇子。
母は日野西資国の娘、光範門院日野西資子。
同母兄に称光天皇がいる。


この人物については、
いくつかの奇行が伝わっている。


応永27年(1420)正月3日、
父後小松上皇の御薬陪膳の儀式のさなか、
17歳の小川宮は突如、妹理永を「蹂躙」(『看聞日記』)した。
すぐさま母資子らに取り押さえられたが、
その場は、泣き出す者もあり(妹か)、
大変な騒動になったという。
「婬事ゆえ」(『看聞日記』)の所業らしい。
これにより、父上皇の逆鱗に触れた小川宮は、
すぐさま逐電。
召次の家へ逃げ込み、
やがて、日野資教(祖父日野西資国の兄)の屋敷へ入った。

その後、父の怒りも解けぬまま、
10月11日、
勧修寺経興の屋敷へ移る。
室町殿足利義持のはからいであったというが、
押しつけられた経興も、たまったものではない。


翌応永28年(1421)5月19日、
足利義持は、ふらりと勧修寺邸に小川宮を訪ねているから、
義持には、小川宮の境遇など、
どこか気にとめるものがあったのかもしれない。


しかし、実父の対応はまるで違う。
応永30年(1423)2月16日、
この厄介な次男の「酔狂」(『兼宣公記』)を恐れる父上皇は、
万一に備えて、内裏の門の警備を厳重にさせた。
小川宮を預かる勧修寺経興が、
彼が内裏に押しかけかねないと、母資子をとおして報告したのであった。

その6日後の2月22日、
小川宮は、兄称光天皇の飼っている羊を、せがんで譲ってもらい、
その当日に、打ち殺している。
軋轢、抑圧のフラストレーションだろうとはいえ、
これでは、実の父も身構えざるをえない。


応永32年(1425)2月15日夕刻、
小川宮に、特に変わった様子はなかった。
翌16日丑の刻(深夜2時頃)、
にわかに体に不調をきたす。
この時、周囲は容態を重くは見なかった。
しかし、その後に容態は急変。
駆けつけた勧修寺経興に対して、
「もはや回復はしないだろう。
 早く行水の準備をせよ。
 それから、日野資教を呼べ。
 言い伝えることがある。」(『薩戒記』)
と命じた。
資国がすぐに駆けつけたが、間に合わず、
辰の刻(朝8時頃)、
医師坂胤能が臨終を告げた。

危篤の報を受けて駆けつけた中山定親は、
その途次、同じく急行する母資子に、
また、勧修寺邸の門前で広橋兼宣に遭遇した。
だが、
小川宮薨去の後であり、
「触穢があるので、今日は引き取ってほしい」
と、亭主経興に言われ、
中山定親らは引き返した。
しかし、
その途中で、小川宮の脈が回復したとの報を受け、
再び勧修寺邸へ向かったが、
やがて虚報と判明し、定親は帰宅。


生前小川宮は、特に病弱ということもなく、
まったく急な「頓死」(『看聞日記』)であった。
翌月には、元服の予定もあったという。
「人間不定、今更驚くべし、悲しむべし悲しむべし」(『看聞日記』)
ただ、今日の医学ならば、
何らかの疾患と診断されていたかもしれない。


しかし、そこは中世。
このあまりにも急な死と、
臨終時、体が紫色に変色していたということから、
「内瘡」や「大中風」(『薩戒記』)といった病死説のほか、
当初から、毒殺説がささやかれた。
小川宮を預かる勧修寺経興が、毒を盛ったというのである。
足利義持は、特に気にとめることもなかったが、
父後小松上皇は、厳しく糾明を命じた。


19日、永円寺で荼毘。
日野資教・勧修寺経興らが参列。

その後、
2年間、小川宮に仕え、その寵愛を受けていた今出川公行の16歳の娘に、
後小松上皇から、落髪せよとの命令が下された。
上皇の命令には逆らえず、
25日、落髪、出家。
世の同情を誘い、
伏見宮貞成親王も、
「不便(ふびん)至極、
 母儀陽明禅尼、殊に不便々々。」(『看聞日記』)
と記している。


これら父後小松の対応も、
なんだか、釈然としないものがある。


小川宮薨去から11日後の2月27日、
今度は、将軍足利義量が19歳にして死去。
たて続く凶事に、
横死した足利義嗣の怨霊のしわざとも噂された。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
『大日本古記録 薩戒記 2』 (東京大学史料編纂所 岩波書店 2003)
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《誅殺》 《1496年》 《正月》 《7日》 《享年49歳》


正四位下、大学頭・文章博士・大内記。
九条家の家司。


代々家司として摂関家の九条家に仕えていた唐橋在数は、
文明年代後半(1480頃)から、
九条家の当主政基・尚経父子と、深刻な対立関係にあった。
理由の一端には、九条家の家領支配をめぐってのことがあったらしく、
家領から年貢がなかなかあがってこないで、困窮した政基が、
現地の代官を叱責したところ、代官は確かに納めたことを主張、
年貢を管理していた在数に、押領等の疑いがかかったという。


九条政基の母は、唐橋在数の父在治の姉妹であり、
すなわち、政基と在数は従兄弟の関係にあたる。
かつて、政基とその甥政忠との九条家当主をめぐる争いにおいて、
在数の父在治は、政基派の主軸となって、立ち回り、
在治を前にした政忠は、怒りのあまり、刀を突きつけたという。
九条家における家司唐橋家の位置が、
如何に重いものであったか。


明応4年(1495)末、
怒りのたまった主九条政基は、唐橋在数の出仕を拒否。
しかし、
在数はこれを無視して九条亭に出仕した。
翌5年(1496)の元日・2・4日も、
同様に九条亭にやってきた。

そして、7日、
やはり出仕してきた在数と政基父子の対立は、
口論から、瞬時に加熱したらしい。
政基と尚経は、邸内において、自らの手で在数を殺害した。


元関白とその嫡子による殺人事件という、
「前代未聞」「もってのほか」(『後法興院記』)
「言語道断」(『実隆公記』・『親長卿記』・『和長卿記』)の事態に、
京都政界は揺れに揺れた。
在数と同族の東坊城和長は、
「不便(ふびん)といい無念といい、言説にあたわず」(『和長卿記』)
と、書き記している。


事件から3日後の正月10日、
在数と同族の東坊城和長・五条為学らは集まって、その後の対応を講じ、
24日、連署で抗議文を朝廷に提出。
また、
前例のない事態に対応を苦慮していた朝廷も、
同じ24日、
勅使を九条家に遣わして、事情聴取を行った。


当の政基は、
在数の罪状や「不義緩怠の子細」(「九条家文書」)を主張し、
殺害の正当性を頻りに訴えた。
在数は九条家当主の改替を図ったのだ、としており、
「愚老(政基)たとい天上の妙果を得るといえども、
 また三有の旧里に帰すといえども、
 在数朝臣においては再会するべからず。
 今生一世の勘気に非ざる…」(「九条家文書」)
と、在数への怒りが相当なものであったことがうかがえる。
蘇我入鹿と藤原鎌足の例までとりあげて、
摂関家の敵は朝敵である、とまで言っている。


2月5日、
後土御門天皇の御前にて、伝奏・弁官・外記らが出席して、評定が開かれた。
当初、九条尚経の官位剥奪が検討されたが、
近衛尚通や三条西実隆の口入れもあり、
閏2月3日、
勅勘による政基・尚経の出仕停止という判決が出された。


事件から3年近くを経た、明応7年(1498)12月11日、
九条家に勅免が下り、尚経は再び朝廷に出仕した。
政基は、これを機に隠居、剃髪。
また、
在数の子在名が元服し、唐橋家を継承した。


被官勢力の抬頭、
それによる、下剋上・上剋下の波は、
この時代、武家・公家を問わない。



〔参考〕
『図書寮叢刊 九条家文書5』 (宮内庁書陵部 1975年)
東京大学史料編纂所データベース
湯川敏治「唐橋在数事件顛末」 (『戦国期公家社会と荘園経済』 続群書類従完成会 2005年)
小森正明「中世後期九条家の家司について」 (『史境』28 1994年)
丸山裕之「中世後期公家家政の変容」 (『三田中世史研究』18 2011年)
《誅殺》 《1429年》 《9月》 《24日》 《享年不明》



永享元年(1429)9月18日、
奈良にて潜伏中の楠木光正が捕縛され、
京都に連行された。
捕縛の手柄は、興福寺衆徒の有力者筒井覚順。
22日に奈良に下向する将軍足利義教を狙ったものとして、
捕えられたのであった。


楠木光正は、
その名字と「正」の通字からしてもわかるとおり、
南北朝期に南朝方として活躍した楠木正成の末裔と思われるが、
詳らかでない。
本当に将軍義教の命を狙っていたのかどうかも、
定かではないのである。

ただ、
応永22年(1415)7月に、
河内で楠木一族が蜂起し、守護畠山氏に鎮圧されているので、
光正もその関係者、あるいは張本人として、
身柄を捜索されていたのかもしれない。


18日に逮捕・連行された光正は、
4日後の24日、
京都六条河原にて、幕府侍所によって斬首された。
侍所の者たち6、700人が取り囲んだ上での処刑であったといい、
誇張にしても、随分ものものしい。
斬り手は、魚住某。

執行日当日に、奈良に滞在中であった将軍義教は、
「はやく首を斬れ」と急かしている。
捜査が長く深く及ぶと、
何か不都合なことでもあったのだろうか。


斬られる前日、
光正は硯と紙を取り寄せ、
辞世の頌歌をしたためた。


 幸いなるかな、小人の虚詐により大謀の高誉を成す。珍重々々。

 不来不去真空を摂る
 万物乾坤皆一同
 即ち是甚だ深し無二の法
 秋霜三尺西風を斬る

 なが月やすゑ野の原の草のうへに 身のよそならできゆる露かな
 我のみかたが秋の世のすゑの露 もとのしづくのかゝるためしを
 夢のうちに宮この秋のはてはみつ こゝろは西にあり明の月

   永享元     楠木五郎左衛門尉光正
     九月廿三日       常泉


光正の処刑に際し、
河原にあふれるほどの見物人が集まった。
首は、京都四塚にかけられた。


伏見宮貞成王は、
「頌歌等、天下の美談なり。」
と讃えている。
光正への同情の集まりは、
将軍・幕府にとっては、確かに都合が悪い。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
《誅殺》 《1421年》 《2月》 《17日》 《享年不明》


京都三条堀河千手堂の老僧。


応永28年(1421)2月17日、
京都三条堀河の千手堂に盗人が入り、
主の老僧を刺し殺して、堂に放火した。
堂の下に埋めておいたという、
大般若経新写のために勧進した料足3,000疋を狙った犯行という。

さっそく、
堂に寄宿していた龍山和尚に、嫌疑がかかり、
幕府の役人は、捕縛・糾問の末、犯行を白状させた。
重罪により、死刑は確実だろうとされた。


この龍山和尚、
あちこちを巡りながら、人々に法華経を講釈していた僧で、
その語りぶりが、なかなか見事であったらしく、
講釈のたびに、人々が群れ集まったという。
事件前年10月には伏見にも訪れ、
好奇心旺盛な伏見宮貞成親王も、こっそり聞きに行くほどであった。
そのためか、事件を聞いた貞成親王は、
「いくら末法の世とはいえ、
 これほどの重罪や破戒は聞いたことがない。」(『看聞日記』)
と、驚いている。


ところが、
一度は犯行を認め、投獄された龍山であったが、
翌18日になると、一転して犯行を否認、無罪を主張した。
どういった取り調べがあったか不明だが、
犯行は、弟子たちの所行ということになって、
龍山は処刑を免れ、追放と相成った。


自白の強要による冤罪か、
はたまた、
弟子へのなすりつけによる命乞いか。
どちらにしても、後味の悪い事件である。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
《誅殺》 《1422年》 《3月》 《8日》 《享年不明》


正四位下、左近衛中将。


応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。

当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。


6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。


なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。

ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
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