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死に様データベース
《病死》 《1345年》 《8月》 《23日》 《享年57歳》


大外記中原師右の妻、
中原師茂・師守らの母。


康永4年(1345)の2月6日に、夫師右を亡くしたその妻は、
同月19日に出家して尼となり、顕心と号した。
その後も、子どもたちと夫の供養に勤しんでいたが、
翌3月の21日、いささか体調を崩した。
27日には、医師伊賀入道本寂の診察を受け、「大事ない」と診断されており、
次男師守は「心中悦喜のほか他事なし」と安堵して、
兄師茂と酒を飲んでいる(『師守記』、以下同)
3月30日、師茂・師守兄弟は、父の喪明けで職務に復帰した。

4月3日、顕心の病はやや回復したようで、次男師守はまた喜んでいるが、
この日の未の刻(午後2時頃)
顕心の暮らしている北面対屋の北東の柱に、羽蟻が涌くという変事があった。
陰陽師に相談したところ、
「重慎」であり、祈祷の必要があるとのことであった。
「口舌」(諍い)の災いがあるが、祈祷をすれば吉事に転じるとのことであった。
おそらく、陰陽師による祈祷がなされたであろう。


結局、顕心の具合は横ばいのままで、
5日、再び医師本寂の診察を受け、
やはり大事ないと診断されたものの、薬を処方された。
14日、重ねて本寂に診てもらい、
「御風」(風邪)と診断されて、五積散という薬を出されている。


17日、亡夫師右の跡を継いだ長男師茂が、大外記に任じられて、
名実ともに一家の当主となった。
このころ、師茂家では代替わりにともなう居宅の改築を計画していたが、
顕心の体調を慮って、改築を師茂の部屋周りにとどめている。
顕心は亡夫の部屋を使っていた。

20日、顕心の前で、新当主師茂が亡父師右の譲状を開封する儀が行われた。
長女や次男師守に宛てられたものもあり、
皆、師右を偲んで涙に暮れたようである。

26日、改築がなって引っ越しが行われ、
師右没後、顕心が管理していた南北文庫の鎰が、師茂に渡された。
師右から顕心を経て師茂への代替わりが着々と進んでいたことが、
次男師守の日記『師守記』に、刻々と記されている。


そのころの本寂による顕心の診断は、以下のとおり。
4月26日、「虚労」。薬を処方。
5月6日、「病状は変わらないが大事ない」。
5月11日、「やや快方にあるか」。
4月27日に支払われた薬代は、1貫100文(11万円ほどか)にのぼった。

5月17日、顕心は病をおして、夫師右の百ヶ日忌を執り行っている。


6月1日、
次男師守は、月が改まればの病気も癒えるはず、と期待をかけている。
しかし、6月4日のようすでは、顕心の具合はやはり思わしくなく、
毎日のようすを見ていた師守は、
一向に快方に向かわないことを嘆き、仏神に祈っている。

また本寂の見立て。
6月6日、「やや回復している」。薬を処方。
6月18日、「安心してよい」。
6月25日、「大事ない」。
次男師守はその都度一喜一憂しているが、
気休めの診断を下される顕心自身は、どう思っていたろうか。

このころ、長男師茂も体調を崩し、
8月には、「瘧病」を起こして、医師の伊藤六郎や本寂の診察を受け、
僧侶に祈祷もしてもらっている。
なお、本寂の診察料は高額だったのか、
師守やその家族の診察は、もっぱら伊藤六郎がしている。


7月18日にも、顕心は本寂より薬を処方され、
薬代100疋(10万円ほどか)であった。
しかし、顕心の病状は悪化の一途をたどり、
日に日に食欲を失い、体のむくみもひどくなっていった。
22日、次男師守は、もはや回復は望めないものと悲嘆している。
26日、医師本寂はついに「期待はできない」と診断した。


8月1日、
師守は再び、月の改まりにと兄の平癒に望みを託している。
7日ごろ、兄師茂の「瘧病」は治ったようだが、
顕心は、
14日には、師守とともに来客の対応もしたものの、
21日、容態が急変し、危篤に陥った。

23日酉の刻(夕方6時頃)、入滅。57歳。
3月下旬に体調を崩してから、5ヶ月。
臨終正念、閉眼の間際まで念仏を42遍唱えての往生であった。

師守ら兄弟姉妹にとっては、半年ばかりを隔てて父母を相次いで喪ったのである。
遺体は、亥の刻(夜10時頃)、ひそかに持蔵堂に移され、そこから霊山殿に運ばれて、
僧侶の手により葬儀が行われた。
師守らも密々これに随行している。
師茂家から支払われた葬儀代は、2貫500文(25万円ほどか)
先例では土葬だったが、火葬されたようである。

師茂家は人々の弔問を受け、
なかには見舞いのつもりで訪れたところ、他界を知って引き返した者もいた。


29日の初七日法要は、悪日のためやはり僧侶によってなされたが、
二七日以降の法要は、師茂家でなされた。
9月4日、師守は、黒染めの狩衣を着て、霊山殿へ最初の墓参りをし、
10月5日には、七七日に書写した般若心経を墓前に供えている。
この日、師茂・師守兄弟は、喪明けでもとの官職に復したが、
10月23日、月忌始め、12月3日、百日忌と、
供養を怠らずに執り行っている。



〔参考〕
『史料纂集 師守記 第3』(続群書類従完成会、1969年)
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《病死》 《1105年》 《正月》 《某日》 《享年不明》


摂津広田社(現・兵庫県西宮市)に参籠していた女性
名前や出自、身分等はわからず、庶民であったか。


長治2年(1105)正月、
広田社に参籠していたこの人物は、
その末社のひとつの舞殿に参籠していたところ、
「頓死」した(「続左丞抄」第2)
「寝死に」、すなわち眠ったまま死んでいたため、
周りの人は気づかなかったという。
宿直の神人が下女に命じて、ひとけのないところに遺体を持ち出したという。
葬ったとか、弔ったという記述はない。

広田社は、社中の死穢により、恒例の祭礼等をとりやめた。
まもなく、朝廷より祓い清めの命令が下り、
次いで祈謝の宣旨が下されたとみられる。



〔参考〕
『壬生新写古文書』(宮内省図書寮、1930年)→該当箇所
『新訂増補国史大系 第27巻 新抄格勅符抄・法曹類林・類聚符宣抄・続左丞抄・別聚符宣抄』(国史大系刊行会ほか、1933年)→該当箇所
《病死》 《1207年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


鎌倉幕府御家人比企朝宗の娘。
はじめ幕府の女房として将軍源頼朝に仕え、
頼朝にことさら気に入られて、「当時権威無双の女房」(『吾妻鏡』)といわれた。
「容顔はなはだ美麗と云々」(同前)とされている。
姫前〈ひめのまえ〉」は、この女房時代の呼び名である。

そのうちに北条義時に見初められ、
一両年にわたって散々文でもって言い寄られた。
姫前は一向に聞く耳をもたなかったが、
頼朝の聞き及ぶところとなり、
離別しない旨の起請文を義時に書かせたうえで、嫁ぐことを命じられ、
姫前は義時に起請文を出させて、
建久3年(1192)9月25日、正妻として義時の邸宅に入った。
義時30歳。
姫前は20歳前くらいだったろうか。
わざわざ起請文を出させたのは、将来に不安があったからかもしれない。

この婚姻には、
幕府の実力者である北条家と比企家の融和という思惑も、
頼朝や両家の周辺にあったとされる。
ふたりの間には、
長男朝時、次男重時、長女竹殿が生まれた。


しかし、
姫前は北条家と比企家の架け橋となれなかった。
父朝宗の義兄弟比企能員が、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるい、
夫の父北条時政と対立したのである。
建仁3年(1203)9月、時政らは能員を謀殺、比企一族を滅ぼした。
義時は、反逆者の一族である姫前を離縁した。

ただし、
ふたりの離縁を、正治2年(1200)5月以前とする説もある。
この月に、義時の側妻が義時の本邸で出産し、
なおかつそれが、大々的に扱われているためである。
とすると、離縁の意味合いも、おのずと変わってこよう。
ただ、いずれにしても、
義時が姫前に言い寄って、結果的に破ることとなる起請文を出した話を、
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』が、なぜわざわざ記しているのかは、よくわからない。


そののち、姫前は上洛し、
ほどなく源具親の妻となった。
この村上源氏の傍流は、高位高官こそ望めなかったが、
和歌に秀でた一族で、
具親自身も和歌所の寄人に列し、
その妹には、歌人として著名な後鳥羽院宮内卿がいる。

離縁翌年の元久元年(1204)には、
具親との間に、輔通を産んだ。

建永2年(1207)3月にも、姫前は出産したが、胞衣がなかなか下りなかった。
胞衣(えな)とは胎盤等のことで、
胎児の出産後にそれらを娩出する後産が、思わしくなかったのである。
姫前の容態は重篤で、ついにはたびたび意識を失うに至った。
3月28日には、門前まで藤原定家の見舞いを受けたが、
翌29日、逝去した。
30代前半だったろうか。


具親とのあいだの長男源輔通は、
嘉禄2年(1226)11月、幕府の推挙により侍従に任じられ、
またその弟の輔時も、姫前の子とすると、
彼はのち、異父兄にあたる北条朝時の猶子となり、
輔時の息子通俊は、朝時の娘を妻としている。
姫前が産んだ両家の子どもたちは、
姫前の没後もつながりを保ちつづけたのである。



〔参考〕
『新訂増補 国史大系 32 吾妻鏡前編』(国史大系刊行会ほか、1932年)
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2 自承元元年至嘉禄2年』(朝日新聞社、2014年)
高橋秀樹編『新訂吾妻鏡 4 頼朝将軍記4 頼家将軍記 建久3年(1192)~建仁3年(1203)』(和泉書院、2020年)
安田元久『北条義時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1961年)
森幸夫『北条重時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2009年)
岩田慎平『北条義時―鎌倉殿を輔佐した二代目執権―』(中公新書、2021年)
山本みなみ『史伝 北条義時―武家政権を確立した権力者の実像―』(小学館、2021年)
近藤成一『執権 北条義時〈知的生きかた文庫〉』(三笠書房、2022年)
田端泰子「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」(『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年、初出1996年)
石策竜喜「鎌倉武士の婚姻形態についての一試論―男女の出会いの場としての将軍御所の役割を中心として―」(義江彰夫編『古代中世の社会変動と宗教』吉川弘文館、2006年)
小野翠「鎌倉将軍家の女房について―源家将軍期を中心に―」(『紫苑』6、2008年)
《病死》 《1568年》 《8月》 《1日》 《享年55歳》


房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。

夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。

正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。


正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)


永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉

訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、

 恩恵難忘旧主悁  黒衣紅涙若深淵
 人間五十五年夢  人破秋風月一天

 ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
 思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり

等々と詠んでその死を悼んだ。


翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。

正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。


42年の夫婦生活のすえ、に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、

 かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
 尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
 雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)

等の歌を添えている。


義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。

とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。


夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。



〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
 同  「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
 同  「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
《病死》 《1338年》 《11月》 《7日》 《享年不明》


内大臣中院通重の娘。
後二条天皇の皇孫で「禅林寺宮」と呼ばれた木寺宮康仁親王に仕えて、その鍾愛を受けた。
「南御方」は、女房名のうちでも最高位のひとつであり、
その遇されようがうかがえる。
康仁親王とともに、参議六条有光の邸に住んだという。


建武5年(1338)7月、
南御方の懐妊が判明し、
25日未の刻(午後2時頃)、実家中院家のもとで着帯の儀が行われた。
帯の加持は、兄弟の真光院成助がつとめた。
子の父親の康仁親王は、元弘元年(1331)に、
両統迭立を遵守する鎌倉幕府によって持明院統光厳天皇の皇太子に立てられたが、
翌々年、倒幕を果たした大叔父後醍醐天皇によって廃太子された経歴をもつ。
南北両朝が併立してからは、大覚寺統ながら親北朝(持明院統)の立場をとったが、
そうした一筋縄ではいかない事情もあってか、
着帯の儀は内々に略儀をもって行われたようである。

ところが、4ヶ月余りのち(閏7月をはさむ)の11月7日、
南御方は、難産のすえに死去してしまった。
康仁親王は当時19歳であったから、
さほど歳が離れていないとすれば、10代後半から20歳前後であったろうか。
子の行く末も知られないから、死産か夭逝であったとみられる。
甥の権中納言中院通冬は、
おそらく年下の叔母の死を、「悲歎比類なきものなり」(『中院一品記』)と惜しんでいる。

通冬は縁者として軽度の喪に服することとなったが、
おりしも北朝は直後に光明天皇の大嘗会をひかえており、
現任公卿の通冬は、一連の儀式に出仕しなければならなかった。
同じころ、関白一条経通の北政所洞院綸子が逝去していたが、
その兄洞院実夏は大嘗会の清暑堂御神楽への参勤を命じられており、
同様に通冬の出仕も問題ないとされた。
とはいうものの、通冬は希望していた役に選ばれなかったとして、出仕を見送っている。


人の死が生者にもたらすのは、哀惜と服喪ばかりではない。
参議六条有光は、邸内で南御方が死去したために、触穢となったが、
大嘗会の官司行幸に供奉して、剣璽を持つ役をつとめ、
璽の箱を取り落とすという失態を犯した。
触穢なのに供奉したからとして、
  希代の珍事なり。
  頗る先代未聞の怪異なり。
  不信の至り不可説と云々。(『中院一品記』)
と、通冬の非難は手厳しい。
この不始末によって、有光は参議を罷免された。


なお、歴史物語の『増鏡』によれば、
中院通重の娘が、康仁の父邦良親王に仕えて王子を産んだけれども、
ほどなく母子ともに死んでしまった、としている。
邦良・康仁の混同や、南御方逝去の誤伝など、なんらかの錯誤があるかもしれないが、
もし事実とすれば、
南御方の姉と南御方が、邦良・康仁父子にそれぞれ仕えたものの、
どちらも産褥死してしまった、ということになる。


暦応3年(1340)11月7日、中院家では南御方の三回忌を営んでいる。



〔参考〕
『大日本古記録 中院一品記 上』(岩波書店、2018年)
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