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死に様データベース
《事故死》 《1151年》 《12月》 《26日》 《享年未詳》


仁平元年(1151)12月26日、
京都西京の六条辺りで、
「豺狼」が「下女一人」を「喫殺」したという(『本朝世紀』)


「豺狼」は、やまいぬやオオカミの類のこと。
「喫」は「くらう」と訓ず。

冬場に餌を求めて人里に下りたものか。
獣害はいつの時代も人身を脅かす。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
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《病死》 《1150年》 《11月》 《5日》 《享年91歳》


右大臣藤原俊家の娘。
関白藤原師通の先妻、同忠実の母。
御堂関白藤原道長の庶子頼宗の孫にあたり、
(兄宗俊の息子)には、故実家として名高い中御門流の藤原宗忠がいる。

御堂流の師通の正妻だったが、
全子の政所始が行われる前に離縁したため、北政所とは呼ばれず、
居所をもって「一条殿」「小川殿」と呼ばれた。


康平3年(1060)に、権中納言藤原俊家の娘として生まれた全子は、
関白藤原師実の嫡男で、2歳下の権中納言兼左大将藤原師通と婚姻した。
「いとうつくしき御あはひ」(『栄花物語』巻39)と評される夫婦で、
承暦2年(1078)11月には長男忠実が産まれた。

しかし、その夫婦仲もまもなく「あやしく枯れ枯れにのみなり」(同上)、離縁。
師通は、太政大臣藤原信長の養女信子と再婚した。
全子は、亡父俊家の肖像に祈って師通・信子夫妻を夜な夜な呪い、
あるとき夢枕に俊家が立って、その怨み必ずや晴らそう、と言ったという(『台記』)
はたして師通は、康和元年(1099)6月に、38歳で急死し、
北政所信子は零落して、のちに師通の子孫から「乞食尼」と呼ばれている(『玉葉』)

全子に引き取られ、祖父師実のもとに通ってその薫陶を受けた忠実は、
父師通の没後に藤原氏の氏長者となり、
政治の実権は白河院の掌中にあったが、
長治2年(1105)12月に関白となっている。

関白の母となった全子は、
天永3年(1112)12月、従三位に叙された。
摂関の母が、四位を経ずに無位から三位に叙されるのは、
「未曽有」(『殿暦』)であったという。
全子」の名は、このとき式部大輔菅原在良によって付けられたものである。
永久2年(1114)2月には、従二位、
永久3年(1115)12月には、従一位に昇った。

保安元年(1120)11月、白河院の勘気により、息子忠実が失脚して宇治に籠居すると、
いまだ復権の叶わぬ大治元年(1126)3月、全子は出家している。
それでも3年後の大治4年(1129)7月には、
白河院の崩御にともなって、忠実は復権を果たしている。
久安6年(1150)正月、全子は准三宮となっている。


この久安6年(1150)は、全子の周辺で激動の年であった。
忠実には、忠通と頼長という歳の離れた二人の息子がおり、
忠通にはしばらく子がなかったために、忠実は頼長を忠通の養子として跡を継がせようとした。
ところが、忠通に待望の男子が産まれたことで、
忠実・頼長と忠通の間に、摂関の座をめぐる亀裂が発生。
さらに、それに絡んで忠通の養女と頼長の養女の入内競争も激化して、
久安6年(1150)9月、愛息頼長に肩入れする忠実は、嫡男忠通を義絶するに至る。
目の前で繰り広げられる息子と孫との争いに、老いたは何を思ったろうか。

さらにこの年、10月頃から京都周辺で「咳病」が大流行し、
「老者多く以て妖亡す。民庶あらあら死亡す。近年以来第一の咳病なり」(『本朝世紀』)
というありさまだった。
頼長やその周囲も罹ったほか、鳥羽法皇も罹患して、諸行事への臨幸が取り止めになっている。

全子もまたこの咳病に罹った。
11月4日、全子の病状が思わしくないとのことで、
息子忠実は鳥羽よりのいる宇治へ駆けつけた。
翌5日巳の刻(午前10時頃)、全子は宇治の小川殿にて他界。91歳であった。


忠実・忠通の親子喧嘩は、全子の葬儀にも絡んだ。
忠実は全子の葬儀にあたり、
忠通の衰日(凶日)は考慮せず、頼長の衰日のみをふまえて調整するよう指示した。
17日、入棺。
18日、小川殿で葬礼が催された。
むろん、忠通の臨席はなかったが、
忠実も咳病のために臨席せず、頼長も父忠実の命令により欠席した。
忠実の命令は、頼長の触穢による行動制限を避けるためだろう。
19日、拾骨。


また、忠実は四十九日の間、魚食を断った。
頼長は忠実の年齢を考えて、思い返すよう説得したが、
忠実は聞き入れなかった。
73歳の子が91歳のを送ることを、
孫の頼長は「我が朝未聞」「寿考」と記している(『台記』)

全子の遺骨は、西法華堂という御堂に安置されたが、
これは、御堂流の菩提寺である木幡の浄妙寺が、
小川殿から見て、移転等を避けるべき「王相方」という方角に当たったためで、
翌年の仁平元年(1151)9月に、孫の頼長が西法華堂から浄妙寺へ改葬している。
また、息子忠実は全子の生前より、母のために小川殿のなかに御堂を建てていたが、
完成したのは、同じく仁平元年(1151)の10月のことだった。


全子が最期に目にしたのは、息子と孫との骨肉の争いであった。
この争いは、天皇家の争いなどとも絡んで、
5年後に保元の乱へと発展し、頼長の死と忠実の失墜に帰着する。
とはいえ、離縁後の逆境を耐え抜き、息子の自立や復権を見届け、自身も准三宮まで昇り、
保元の乱を見届けずにこの世を去ったのは、幸運というべきだろう。

前夫を呪った母全子と、嫡男を義絶した息子忠実。
そして、の死を魚食を断つほどに悼んだ息子。
肉親への愛憎の激しさと執念深さは、から息子へたしかに受け継がれたようである。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
『新訂増補国史大系 栄花物語』(吉川弘文館、1938年)
服藤早苗『平安朝の家と女性』(平凡社、1997年)
元木泰雄『藤原忠実〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2000年)
中村成里「『栄花物語』続編と藤原忠実」(『中古文学』83、2009年)
朧谷寿『平安王朝の葬送―死・入棺・埋骨―』(思文閣出版、2016年)
《病死》 《1095年》 《4月》 《28日》 《享年不明》


中納言藤原経季の娘。
宇多源氏の源政長の妻となった。

嘉保2年(1095)4月28日、卒。
「俄にもって逝去」(『中右記』)というから、急死だったようである。
夫政長は58歳であったから、も同じほどであったろうか。


5月4日、
伊勢神宮遷宮上卿であった治部卿藤原通俊は、
逝去した政長の妻が、自身の従姉妹にあたることから、
喪に服すべきか否かを関白藤原師通に問い合わせた。
通俊は他家の養子となっていることから、服喪の必要もないかと思われたが、
大殿藤原師実(関白師通の父)の判断で、
身内に不幸のあった通俊は、遷宮上卿に不適格として更迭され、
替わって権中納言大江匡房が同職に任じられた。

なお、を亡くした政長は、半年後にも続けて亡くしている。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
《病死》 《1095年》 《10月》 《25日》 《享年93歳》


大江山の酒呑童子退治や土蜘蛛退治で名高い、源頼光の娘。
宇多源氏の源資通の妻となり、政長らを産んだ。
『尊卑分脈』には、資通の母が頼光の娘とあるが、誤りか。


嘉保2年(1095)10月25日の暁、93歳で卒去。

息子の備中守政長は、半年前にを亡くしたばかりだった。
半年のうちにを亡くした男の心境は、如何ばかりか。
なお、その政長も、1年数ヶ月後に、
父資通や養父経長のように公卿には昇れないまま、卒去している。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 尊卑分脈 3』(吉川弘文館、1961年)
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
《病死》 《1228年》 《2月》 《4日》 《享年91歳》


八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。


寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。


養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。

文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。

その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。


安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。


現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。





〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
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